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2017-2018年越し応援団シリーズ(3)

2017年12月29日

相撲ができなくて さびしい!!2.4国技館で引退相撲・断髪式

高砂部屋・錦島親方(元関脇朝赤龍)に聞く(上)

インタビュー : 西嶋大美(ジャーナリスト、元読売新聞記者)
同席者 : 宇佐美博幸(写真家、ハートセービングプロジェクト理事)

「応援団シリーズ」の二人目は、2017年5月に大相撲現役を引退し、錦島を襲名した元関脇朝赤龍関です。錦島親方はハートセービングプロジェクトのよき理解者であり、子ども病院を慰問したり、大相撲の番付表やカレンダーを寄付したりするなどの支援活動をしています。2018年2月4日(日)には、両国国技館で<朝赤龍引退・錦島襲名披露大相撲>が催されます。準備に忙しい親方を、10月18日、国技館にほど近い新事務所にたずね、現在の心境や現役時代の思い出を聞きました。続編(下)では、ハートセービングプロジェクトとのかかわりなどをうかがいます。

朝赤龍関

朝赤龍関

 

[プロフィール]親方名は錦島太郎(にしきじま・たろう)。本名はバダルチ・ダシャニム。1981年8月、モンゴル・ウランバートル市生まれ。現役時は身長184センチ、体重150キロ。16歳で、元横綱朝青龍とともに高知・明徳義塾高校に入学、相撲部へ。インターハイ個人戦でベスト8。2000年、朝青龍に一足遅れて若松部屋に入門、初土俵。その後高砂部屋。最高位は関脇。序二段優勝1回、十両優勝1回。技能賞2、殊勲賞1、敢闘賞1回。2017年5月場所で引退。生涯戦歴は687勝679敗。引退の1か月前に日本国籍を取得した。ハートセービングプロジェクト会員。

朝赤龍引退・錦島襲名披露大相撲についての詳しい情報は、本記事の末尾に記した日本相撲協会と朝赤龍後援会のアドレスへ。

2008年の関脇当時、神奈川県立こども医療センター慰問

2008年の関脇当時、神奈川県立こども医療センター慰問

病院の慰問の様子

病院の慰問の様子

 

 

 

 

2月4日に引退相撲・断髪式

朝赤龍引退相撲事務局前にて

朝赤龍引退相撲事務局前にて

西嶋 おじゃまします。こちらの事務所は高砂部屋にも国技館にも近いですね。いつオープンしたのですか。
2017年6月です。5月に引退した後に。朝赤龍引退相撲事務局といいます。2月4日の引退相撲が終わったら、朝赤龍事務所になります。
―西嶋 引退相撲では、断髪式があるのですね。
幕下、十両、幕内、各段すべての取り組みがあるんです。朝から本場所では見られないおもしろいこともあるんですよ。横綱が土俵の上で綱を締めるとか、大銀杏を結うとか。太鼓が鳴って、相撲甚句や初っ切りがあって、そこで私の断髪式があるんです。ぜひ見にきてください。
初っ切り(しょっきり): 大相撲の取り組みの前に、幕下以下の力士が禁じ手をおもしろおかしく紹介する余興。

―西嶋 いろいろ忙しそうですね。
引退した直後は、あいさつに回るので、メチャメチャ忙しかった。今はその準備とチケットの販売が、事務所の大きな仕事です。いただいた化粧まわしが7つあるんですが、これをひとつずつ入れるケースなんかも準備しなくては。チケットの売れ行きは順調です。升席のいいところから売れている。正面がいいか、西か東かは好みですね。2階席もけっこう近くに見られるしね。国技館は1万1千人入るので、まだまだいっぱい売らないと。

―西嶋 親方の仕事って忙しいんですね。ほかにどんなことを?
私、親方になったら、ひまだと思っていたんだけれど、とても忙しいですね(笑)。外からみていたのでは、わからなかったことがいっぱいある。まず、朝起きたら、高砂部屋の稽古場で指導するんですね。自分が習ったことをいろいろと教える。体育の先生みたい。それが終わったら、相撲協会の仕事です。それと、引退相撲が終わったら、巡業の先発とか。巡業先に何日か前に行って、ホテルの部屋を分けたり、食事の場所や内容を検討したり……。

相撲ができない。メチャメチャさびしい!

―西嶋 引退してから、気分はいかがですか。
体はラクになりましたよ。いま体重100キロ、40キロ減。でも、もっとやせないと。このままだといろいろと健康に問題がでますから。引退して楽しいとか楽しくないとか思わないけれど、気持ちはすごくラクですよ。やっぱり全然ちがうもの。現役のときは毎日気を張って、元気を持続させて、ずっと相撲のことばかり考えながら、もっと強くなろうって。それが、いま気が抜けたような感じですね。

引退したあと本場所で取り組みを見たら、メチャメチャさびしい感じがしたんです。ほんとうにさみし~い感じがしたな。まだそのさびしい気持ちが終わっていないんだよね。またやりたい、というか。稽古をしているみんなを見ると、『おれ、まだいけそう』って気がするんだよな。実際にやったらたいへんなことはわかっているんだけど。やりたい気持ちがまだあるんだよね。

―西嶋 引退を決めるときは、悩みましたか。

平成20年3月場所3日め

平成20年3月場所3日め

平成19年9月場所にて関脇

平成19年9月場所にて関脇

高砂部屋は、関取を139年間出し続けていたんです。うちだけですよ。部屋で関取が私一人になったとき、その連続を切りたくないというのがあった。そういう思いで最後までやったんです。ほんとうはやめたかった。幕内から十両にさがったときなんか、十両ではもうやりたくないと思った。でも関取の連続をつなぐ、まずつなぐ、というのがあってやめなかった。とうとう幕下におちて、一場所だけ記録が切れちゃったんです。あと一場所頑張っていたら、朝乃山がでてきたので記録はもっと伸びたんです。そのときはそう思ったけれど……。まー、よかったんじゃないかな。記録を139まで伸ばすことができたから。
関取 : 十両、幕内の力士の呼び名。

 

―宇佐美 朝赤龍(錦島親方)の名前は後世まで残るよ。すごい記録ですよ。
私も、いまはそう思う(笑)。記録を切っちゃいけないというのがあったから、逆に頑張れたのかもしれない。

取り組み、ひとつひとつ覚えている

―西嶋 親方になって、昔のことを思い出すことは? 
日本に来てちょうど20年。プロに入って18年。年数でみれば長いようだけれど、あっという間に終わってしまった感じもあるんですよね。メッチャ短かったですよ。思い出はいっぱいある。はっきり覚えている取り組みもたくさんあります。初土俵のとき、ものすごく緊張したのを覚えている。足が震えているような感じでしたね。

平成12年1月の初土俵

平成12年1月の初土俵

とくに覚えているのは、序二段で初めて優勝したときや十両で優勝したとき。取り組みひとつひとつ覚えています。私が幕下筆頭で、勝てば十両昇進確実という取り組み。相手は元十両の琴の峰。稽古場では一回も勝ったことがなかった。その相手に勝って十両になったんです。2003年の十両優勝決定戦での、武雄山との取り組みもはっきり覚えています。突っ張り合いながら、出し投げでいなして前へ倒した。
それと2004年だったか、勝てば12連勝のとき、大関魁皇関に当たって、腕をたぐって前へ倒したんです(この場所の優勝は横綱朝青龍)。立ち合いで、私が予想していたのと違う動きだったんですね。それで、考えて出した技ではなく、やっている間に出たんです。稽古を続けていると体が覚えてくるから、相手の癖とかも頭の中にあるので、その中で自然と(技が)出てくるんです。だから稽古をしないといけない。気持ちだけでやろうとしたら、できないです。
日馬富士の足を取って勝ったときね。2008年1月場所。あれはすごく覚えている。パーッと足とってね。気持ちよかったもの。

―西嶋 取り組みの前は緊張したでしょうね。

私は多少緊張感があったほうがよかった。緊張しすぎるとたいへん。これに勝てば三賞もらえるかもしれない、などと余計なことを考えず、その取り組みのことだけを考えるようにしましたね。集中するということです。国技館で知人に『隣にいたのがわからなかったの?』なんていわれることがよくありましたね。無視されたんじゃないかと。そうではなくて、周りが見えないというか、気がつかないんです。
―西嶋 親方として今後、どんなことをしたいですか。
自分の弟子を育ててみたいな、と思って。そういう気持ちになってくるんですよ。現役のときはわからなかったけれど。相撲をまったく知らない子をつれてきて横綱にしたい、という親方がいるけれど、わかる。そういう楽しさ、あるのかなと思う。弟子を作るのって、うれしいじゃないですか。そうしたいなと思うんですよ。弟子が日本人かモンゴル人かは、もちろんまったく関係ない。同じだから。

ドルジ(朝青龍)と子どものときから仲よし

―西嶋 同じウランバートル出身の元横綱朝青龍関とは同門、兄弟弟子でした。
ウランバートルで同じ柔道クラブにいたんです。ほんと子どものときからの付き合いです。それが、まさか一緒に日本にくることになるとは思わなかった。二人のときは、私はダグワと呼んでいる。向こうはダシと。相撲界でダグワと呼ぶのは私ぐらいでしょう。横綱の本名はダグワドルジ。高校のとき、先生が呼びやすいようにドルジと呼ぶようになったんですよ。
私らが中学生のとき、高知の明徳義塾高校相撲部の監督と校長先生がモンゴルへきて、留学生を募集したんです。そのとき、二百何十人か集まった。体力テストなどをして徐々に残し、最後に16人残されてモンゴル相撲の試合をしたんです。決勝に残った2人が、ドルジ(元朝赤龍)と私で、2人とも選んでくれました。で、2人一緒に明徳に入ったんです。

平成9年11月明徳義塾高校の寮にて

平成9年11月明徳義塾高校の寮にて

2001年5月千葉県マザー牧場にて

2001年5月千葉県マザー牧場にて

2001年8月モンゴルで乗馬

2001年8月モンゴルで乗馬

 

―西嶋 お父さんはモンゴル相撲の小結でしたね。日本で相撲をとっていこうと決心したんですか
ゼンゼン。私、明徳を卒業したら、大学へ行きたいと思っていたんです。まずは勉強、経済学を専攻したいと。両親は大学をでて、父は会社重役、母は電気関係のエンジニアです。兄弟もみんな大学へいった。だから大学へ行くのが当たり前と思っていたし、大学をでないといい仕事できないというのが頭にありましたね。
募集の案内には相撲と柔道の両方が書いてあったんです。柔道があったから応募したんですよ。明徳で柔道したいと思った。子どものころから柔道していたし、日本にいってみたい―という気持ちはありました。『日本は柔道の国』というのがあったから。子どもだったから軽い気持ちで、行ったら柔道部へ入っちゃえばいいや、と考えたんです。それで、明徳にいってから、ドルジと二人で柔道部へ入りたいと見に行ったら、怒られたんですね。結局柔道は一回もやらなかった。
錦島親方自身、モンゴル国立大学言語文化学部の通信教育課程を2010年に卒業。「日本相撲の歴史と文化」が卒論のテーマ。

あと何百何十何日で帰れるー毎晩ドルジと数えていた

―西嶋 高校生活は楽しかったですか。
楽しくなかった(笑)。日本に来ての20年間に、いい思い出がたくさんあるけれど、一番長く感じたのが明徳のとき。日本語が全然わからなかったし、1年ぐらいたって、ある程度話せるようになったけれど。1年間は帰国しないという約束だったから、夏休みも帰れない。親と離れて、言葉がわからない、そのうえ稽古がメチャクチャ厳しい。もうほんと家に帰りたかった。ドルジと1年半ほど同じ部屋だったから、夜になるといつも二人で『あと何百何十何日』と数えていた。ほんとうですよ。あれは忘れられないです。

稽古はメチャつらくて、たいへんだった。最初は中学生にも勝てないんですよ。でも1年たったら、どんどん勝つようになったんです。入学したとき、えらい強いと思った連中にも勝つようになってくるわけですよ。地方大会でも勝ち、全国大会へいっても勝てるようになった。インターハイ(高校総体)ではベスト8までいったんです。大阪のほうで、ある相撲部屋の人たちと一緒に合宿したことがあって、幕下と相撲とったら、意外と勝てるんです。それに、一つ年上のドルジが角界にいったし、『やれるんじゃやないか』という気持ちがわいてきたんです。それで、大学に行ってから角界に行きたいと先生に話した。先生が『わかった。で、どこへ行きたいの』と聞くので、『京都の立命館大学へ行きたい』と答えたんです。監督が立命館出身だから。それから1週間して、また先生が『学費はどうするんだ』と聞く。で、『アルバイトします』と答えたら、『稽古はどうするの。バイトして授業出て、稽古したら、お前もたないぞ。プロへ行け。わかった?』と。で、『はいっ』(笑)。

平成14年若松部屋にて

平成14年若松部屋にて

―西嶋 横綱(元朝青龍関)と仲がいいんですね。激しい性格の朝青龍と穏やかで人望のある朝赤龍―などいわれたりしますね。
私、結婚してからウランバートルでマンション買ったんです。本場所が終わってモンゴルへ帰ったある朝、寝ていたところに、『起きろ!』という声が聞こえた。それがドルジ。びっくりした。私が買ったマンションの同じ階の隣りにドルジが引っ越してきたんです。ほんとうに偶然なんですよ。縁があるんですね。私がいよいよ引退するとき、ドルジに電話で相談したら、『よくやった。もう十分だ』と言ってくれたんです。うれしかったですね。

 

 

◇朝赤龍引退相撲事務局
〒130-0011 東京都墨田区石原2-15-9 交楽堂ビル1F 
 Tel.03-5819-1525(平日10;00~17:00)
 Fax.03-5819-1525(24時間)
ホームページ www.asasekiryu.com
◇日本相撲協会  http://sumo.or.jp/IrohaKyokaiInformation/detail?id=236 

◇朝赤龍後援会
http://www.asasekiryu.com/info/%E6%9C%9D%E8%B5%A4%E9%BE%8D%E5%BC%95%E9%80%80%E3%83%BB%E9%8C%A6%E5%B3%B6%E8%A5%B2%E5%90%8D%E3%80%80%E6%8A%AB%E9%9C%B2%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E3%80%80%E6%B1%BA%E5%AE%9A/ 

 西嶋大美(にしじま・ひろよし) 日本記者クラブ会員、司馬遼太郎記念財団機関誌『遼』編集委員。1948年東京生まれ、早稲田大学政治経済学部卒、75年読売新聞東京本社入社、秋田支局、社会部、生活情報部(現生活部)次長、編集局部長(文化関連事業事務局長)で退社。著書に『ゼロ戦特攻隊から刑事へ』(芙蓉書房出版)、『心の開国を―相馬雪香の90年』(中央公論新社)、『性教育の現場』(大陸書房)など。HSPホームページに、2016年1~5月、「医療チーム同行記―心臓病の子どもを治したい」を9回連載。
http://heartsaving.org/activity-log/%ef%bc%88%e5%90%8c%e8%a1%8c%e8%a8%98%e7%ac%ac1%e5%9b%9e%ef%bc%89%e5%bf%83%e8%87%93%e7%97%85%e3%81%ae%e5%ad%90%e3%81%a9%e3%82%82%e3%82%92%e6%b2%bb%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%84%e3%80%80/
その後、「2017応援団シリーズ」の一人目として、フレルバータル元駐日モンゴル大使のインタビューを掲載。
http://heartsaving.org/activity-log/2017%E5%BF%9C%E6%8F%B4%E5%9B%A3%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89/

 

                                    (続く)